カテゴリ
最新の記事
以前の記事
検索
最新のトラックバック
その他のジャンル
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
その1はこちら
左京さんは、「あの時の大学生が受賞して戻ってきた」と喜んでくださり、その後大阪で行われた「さよならジュビター」の試写会と記念パーティに招待いただきました。音楽家や雑誌編集者、都市計画の人、、たくさんの大阪の文化を担っている方をご紹介いただきました。 そのご縁で通産省のマルチメディア関係のパネルディスカッションに出演したり、大阪と上海の友好都市イベントの映像を制作したり。ラジオ番組のオーディションを受けたり。大学生活は一変します。 当時左京さんは朝日放送の隣のプラザホテル(現在はありません)に大阪のオフィスを構えていらっしゃり、駆け出しの私は他の若いモン達とともに出入りさせていただきました。ホテルのバーで左京さんのつけで飲ませていただいたりも。 CGに興味はあったものの、卒業制作が終わり大学卒業後は、無難に美術教員になるつもりでした。 でも、4年生の後期に就職試験(教員採用試験)と大学院試験の両方に失敗した私は、この先どうなるか全く謎だらけの棘の道に進むことになりました。 大学を卒業しとりあえず阪大の研究生の身分を確保。NICOGRAPH’84にも作品を応募し、再び受賞したのですが前年ほど大きな賞を取ることができませんでした。その時、今後コンペに応募することはやめようと決めました。審査員に見せる作品でないもの、、自分の作品を作ろうと決めたのです。 3ヶ月かかり「飽秋(ほうしゅう)」という、3分間のアニメーションを作りました。初めて音楽と映像のシンクロを意識し、その後の制作方針がほぼ決まったといえる作品です。 へろへろになっての制作が終わりほっとしていると、四つ橋筋南堀江のパームスの4階に来るように、との連絡を受けました。パームスは、存在感のある古いビルにあり、1Fがおしゃれな人達が集うカフェ、2Fがバー、地下がディスコ、の大人の集う場所。大学生時代には背伸びしてカフェに行くのが精一杯な場所でした。その4階だなんて、何があるのだろう。と、ドキドキして入ると。。 モダンな部屋には、当時まだ珍しい大型モニタ(もちろんブラウン管TV) があり、革張りのソファーには左京さんと、師匠の大村先生がにこやかに座っていました。 「さあ、季里ちゃんの新しい作品、見せてもらおか。」電通の人や、TV局の人、雑誌社の人を招待し、一晩だけの作品お披露目会を企画してくださったのです。 「これからやね。これからは世の中に作品を問うていかんと。」左京さんはおっしゃいました。 私はこの日から、コンペの為や、自分の為でなく、世に問うために作品を作らねば、と思うようになりました。 「世の中に問う」って、すごく大げさな感じの言葉ですが、大学出たてで社会との接点無し、の私にとっては大きな意味がありました。 あの時の左京さんは、今の私の年齢とそう変わらないのではないかしら。 左京さんの事を思い出すと、いつも22才の気持ちがよみがえります。
by kiri-works
| 2011-07-29 23:16
|
ファン申請 |
||